「円空」、 時を越えて円空仏は静かに語りかける

出生と得度

円空は寛永9年(1632)美濃国郡上郡(ぐじょうぐん)の南部、瓢ヶ岳(ふくべがたけ)山麓(美並村)で木地師の子として生まれたと推定されています。

少年時代から山野を歩きまわると共に星宮神社の別当寺である粥川寺に出入りし、雑役のかたわら経文や手習いを教えられ、その間に周辺の山々や伊吹山・白山などに登り、山伏修験との交流があったと考えられています。

そして修験道への理解を深め、木喰戒を受け、その結果全国各地の霊山をめぐって験力をたかめ、庶民救済という誓願を実現するためには得度が必要との考えに達し、寛文3年(32歳)粥川寺において得度したものと考えられます。

素朴な鉈さばきが生んだ円空仏の魅力。その顔に浮かぶ不思議な微笑みは、何かを語りかけているかのようです。円空上人が円空仏を通して今の世界に話しかけたかったことがあるように思えてならないのです。

何も語ることのない円空仏。でも、私たちは円空仏に円空上人の言葉を確かに聴くのです。

私たちのふるさとは、多くの像を彫った庶民宗教家のかけがえのない生まれ故郷でもあります。

円空略年譜

寛永9年(1632年) 0歳

美並村瓢が岳山麓で木地師の子に生まれたと推定。

寛文3年(1663年) 32歳

美並村粥川寺で得度。

寛文5年(1665年) 34歳

「伊吹山平等岩の行」を終え、北海道への遊行に向う。

寛文9~11年(1669~1671) 38~40歳

北海道・東北・関東の遊行から粥川寺へもどり、美並村を中心に造像活動を行なう。

延宝2年(1674年) 43歳

大峯山・笙の窟で冬ごもり。

延宝4年(1676年) 45歳

「日本修行乞食沙門」を宣言して遊行。

貞享2年(1685年) 54歳

丹生川・千光寺や飛騨各地を巡り多数の仏像を残す。

元禄2年(1689年) 58歳

江州・関東方面遊行、飛騨上宝村金木戸で十万体 造顕達成を記す。

元禄5年(1692年) 61歳

洞戸村・高賀神社で雨乞いをする。

元禄8年(1695年) 64歳

7月15日関市池尻・弥勒寺で死去。

長良川畔で入定したとも伝えられる。

伝承・遺跡

蛭(ひる)封じ・雷封じ(木尾・洞泉寺)

木尾には、円空が蛭や雷を封じたので、田や山へいっても蛭は食いつかず、雷が落ちないという伝承と、その封じ物が洞泉寺にあります。封じ物は竹の皮で包んだ直径5cmほどの版画用バレン状のものです。これについて、同寺の前住職が、「円空上人自刻木像ノ世ニ出ルマデ」に書いています。

「ワタシガ、昭和二十二年七月、コノ洞泉寺ニ来テ間モナク 1,コノ村ニハ円空サンガアルカラ、絶対ニ落雷シナイ。 2,昔ノエライ坊サンガ、百姓ガ田デ働ク時、ヒルニスイツカレテ難儀スルヲアハレミ、ヒルヲ封ジテ下サッタ。ソレダカラ木尾ノタンボニハ、ヒルガイクラ居ッテモ人間ニハ決シテ食ヒツカナイ、トイフコトヲイテ居タ。 昭和三十六年一月三日、年頭ニミタ円空サンノ台(小箱)ニハ、円空サンガヒルヲ封ジタノト、雷ヲ封ジタノト二ツ入ッテイル。先年倶楽部(庚申堂を改造したもので、集会場になっている)デ村中寄合ノアッタ時、アル人ガ、ホントカウソカタメシテミルトイッテ、ソノ中ノ一ツ(少シ厚イ方)ヲ開イテ見タラ、ヤッパリヒルガ紙ニ包マレテハイッテイタ。ソレヲ元ノママニシテオイタ。モウ一ツ(ウスイ方)ニハ雷ガ封ジテアルヤウダ。コレヲ改メテカラ山ヒルハ大ソウフエテ難儀スル」とあります。

円空洞

県道より川干谷沿いの林道を約2km入ったところにあります。川干谷の左岸にある大岩石で、その大きさは横約8m・縦約6m・東南方向に約30度傾いています。岩石の下は、間口約5m・奥行き約6m・高さ約1.5m・奥の高さ約50cmで、奥の両側は、岩石や土砂囲まれています。

この岩石の下で円空は仏像を刻んだが気に入らないと川へ流したという承があります。又、この岩の上流にトチハカリという岩石があり、村人が栃の実をわけたといわれています。その上流に木地師屋敷跡があり、更に登っていくと瓢ヶ岳です。

焼き木仏

薬師如来立像(現在苅安林広院にある)は、三日市・薬師堂の薬師さんとして親しまており、円空仏として騒がれる前までは、三日市の子どもたちの遊び相手でした。夏になると水遊びの浮き木の役目をさせられたとのことです。前面のあちこちに小さな傷があるのは、子どもたちの相手をしたためであり、又、背面の一部が焦げているのは、たき火のためだといわれています。

浮き木仏

明治26年8月22日~23日の長良川大洪水の時、上流から下田の船着場に流れ着いたものです。船着場から流れ去らないので、引き上げることにして、トビを打ち込むと血が流れたので驚いた人々は、「たたりがあるといけないから流してしまおう」「流れていかないのは何かの縁があるのだから引きあげよう」と意見が分かれたが、結局上げることになりました。そして、下田・薬師寺境内にお堂を建ててまつったのです。

焼けていたので、「焼け仏」といわれていましたが、そのころはまだ顔形がわかったということです。血が流れたというのは、ケヤキ材の赤目のところへトビを打ち込んだためであろうと言われています。

大正3年、ローソクの火からお堂が焼け、焼け仏が更にひどく焦げて現在の状況になりました。この仏は、「火を呼び込む仏」だからということで建物と離れた所にお堂を建て現在に至っています。黒焦げで、手を触れることもできないが、像容等から、昭和48年8月に円空仏として確認されました。